●和歌山からフェリーで四国・徳島へ
6時起床、30分に出発。国道170号は既に通勤の車で混み合っているものの流れはスムーズ。大阪府とはいえ、河内長野市や和泉市は神奈川県で例えると厚木市や秦野市といった感じ。ベットタウン化が進んでいる中途半端(失礼ながら)な田舎的風景は10年もすれば完全なる都市化となりそうな予感です。
阪南市に入ると私の使用する地図にないバイパスが完成していて流れはスムーズながら、中途半端に途切れたパイパスの終点と国道の合流点は物凄い渋滞になっています。幸い横をスリぬけが出来たが神経をすり減らす。
深日まで来ると懐かしい風景が広がります。既に20数年が経ちましたが、自転車で紀伊半島を一周した時は、この深日から淡路島へと船で渡りました。特に孝子峠は標高100メートルと低いながらも、南海本線が道路の脇を走っていて、中々印象深い峠。ここでも私が20数年前そうだったように、1人の荷物満載のサイクリスト(自転車旅行者)を追い抜く。追い抜き時に出したピースサインにきちんと返してくれました。私は自転車旅行者を見かけると積極的に挨拶をします。これは自身がバイクに乗る以前のサイクリスト時代にライダーから勇気づけられたピースサインを忘れないからだ。不思議とサイクリスト、ツーリングライダーは仲間意識が高い。同じ二輪に乗る旅人は共通の世界観を持っているからだろう。最近はそうでもないみたいだが、昔は学生時代に自転車旅行を楽しみ、社会人になってからバイク旅行に転向するのが一般的だった。私のようにバイクに乗るようになってからも自転車を楽しむ人はむしろ特殊なようです。
紀ノ川大橋もまた、和歌山中心部に向かう通勤の車で大渋滞。ようやく渋滞を抜け、フェリーターミナルへ。和歌山~徳島を結ぶ南海フェリーはかつては四国へ渡る車の大動脈として平日・休日を問わず混雑していたと聞いていたが、淡路大橋・大鳴門橋の開通で利用者が激減したそうだ。実際チケット売り場に乗客は少なく、かつて混雑していた時代の名残りの大きな駐車場はガラガラ。それにしても、この和歌山フェリーターミナルは乗船口と乗船手続き場所が離れ過ぎていて初めての人には分かりにくい。この辺りも混雑時代の殿様商売の名残りなのかも…。
9時20分に和歌山港を出航。徳島までの2時間の船旅はデッキで淡路島を眺め続けます。ちなみに、この船でもバイクは私1人だけでした。
●こんな険しい場所でも人が暮らしている非日常な風景!!
四国の玄関口・徳島に11時10分着。この港も昔の思い出が一杯。初めての長距離自転車旅行は2週間の四国の旅だったが、その時、東京からの船で着いたのも、この徳島港。船は変わってしまったが丁度、東京からの到着便となる東九オーシャンフェリーも港に停泊していた。歳は取ってしまったが、フェリーから降りる時の緊張感とワクワク感は今も変わらないのです。
国道55号で阿南市へ向かいます。10月中旬というのに気温は25度を超えていて暑い!!。それでも昼食に熱い徳島ラーメンを汗だくになりながら食べました。
四国は自転車旅行で走って以来、足が遠のいていました。一度だけ女房と一緒に高松金比羅山を訪れただけでバイクで走るのは初めて。25年前の自転車旅行で8の字に1200キロも走ったため満足しきっていた。とはいえ、25年間放置していた四国を走る気になったのは単純に走った事のない道を走りたかったから。よく、鉄道好きの旅行者が乗車した路線を赤ペン等でマーキングするが、私の場合、自転車やバイクで走った道を地図上にマーキングしている。今回の屋久島までの道程はマーキング空白地帯を走るのが目的でもあります。四国でもこれに習って中央部の山岳路を九州方面に向かいます。
国道195号は土佐中街道なんて名称が付けられているが、実際には交通量の少ないバイク向きの道だった。バイクの場合、道が狭くても対向車を気にする事はないし、道が狭くてカーブが多いような道はトラックも少なく走りやすい。おまけにこの国道195号は高知までの約170キロの間に大きな街もない。ところが1つ問題が発生した。途中立ち寄った道の駅で地元夫婦がいつものように声を掛けてきたのだが、この先で今夏の台風被害にあった道路の復旧の為に時間帯を区切り全面通行止めにしているとの事。念のため道の駅売店で確認した所、その情報は正しかった。普通は通行止めがあるのなら道路情報の標識があるのだが、ここまでそれを見かけなかった。売店の話しでは交通量が少ない田舎道なので主要道のように表示を出していないと言うが、迂回路が皆無の国道でこのいい加減さは…。ところがバイクなら通してくれるだろうと楽観的な事を言われ、ここまで来たらその言葉を信じるしか無い。
那賀川(あざらしのなかちゃんで有名?)の上流に沿って進む国道195号だが、確かに台風の爪痕がたくさん残っている。川に掛かる橋が流されているのだ。それも橋桁ごと。通行止めの心配をしつつ更に登り続ける。山肌が迫り渓谷と化した那賀川を進み、木頭村(きとうむら)に入ると通行止めの案内板がようやく現れる。ここまで進んできて通れませんなんて言われたら昨日同様、宿にの夕食に間に合わなくなります…。しかし、心配は杞憂に終わる。通行止めの時間であったものの、売店で言われた通り、バイクは工事脇を通らせてくれました。
標高660mの四ツ足峠トンネルを抜けると渓流に沿って道が延びる。交通量はほとんどなし。これでは工事による通行止め標識も確かにいらないかもしれません。大きな集落はないものの、時折河川脇に人家が現れる。写真を見てもらえば分かりますが、河川に石積みの土台を作り山肌に沿うように作られた人家もあるのにはびっくり。廃屋かと思いきや、洗濯物が干されているのを見ると現役のようです。川の増水時を想像すると住んでいる人には悪いが、命がいくつあっても足りないくらいですね(汗)。
何もこんな過酷な所に住まなくてもいような気がするのですが…
●25年ぶりの高知の街、懐かしの筆山YH建物に再会
香北町の美良布・道の駅で休憩。田舎の風景には似合わない、あんぱんマンだらけの世界。作者の出身地との案内を見て納得するが、通りすがりの人は驚く事でしょう。ゆっくりしたい所だが、夕刻が近付いてきたため先を急ぐ。土佐山田を抜け、後免(ごめん)に到着。ここは路面電車・土佐電鉄の始発駅。ここまでくれば高知市内は間近。国道32号に入り、一気に高知へ。怪しかった空からは小粒ながらも雨が降り出します。
高知市内も徳島同様25年ぶり。相変わらず路面電車を挟み上下線共に渋滞する国道32号を走り、懐かしの筆山へ。筆山へ向かう理由は25年前に宿泊した筆山YHの跡地を見にいくため。25年前のYHは現在のYHとはだいぶ異なっていた。旅行者の宿という点では今と同じながらも宿泊者の大半は15~25歳。ユースホステルの名前の通り、若者の宿、そして若者の教育の場として存在。筆山YHは300近いYHを泊まり歩いた私にとっても規則の厳しさに関してはNo1。ペアレントも説教うるさい年輩者(決してじいさんなんて呼べません!!)。食事からミーティング、消灯等とにかく時間に厳しく、遅れたりしたら大変だ。また、寝具の畳み方も出発前にチェックされ、間違っていたら怒鳴られる。とても緊張感を強いられるYHだったのです。
案内図にもユースホステルの文字が残り、建物もそのまま残っていた筆山YH
今の時代にそんなYHがあったら、すぐにネット上で問題視され、誰も寄り付かなくなりそうですが、25年前はそんなYHでさえシーズン中は連日満室であり、予約・宿泊出来る事自体が有り難かった。とはいえ、そんな筆山YHでもミーティングは楽しかったし、ヘルパー達も良い人ばかりだった。それに、私が四国を旅した時は日程上、1泊した後に10日後再び泊まる事になったのだが、説教ペアレントから無事旅を続けられた事にお褒めの言葉を頂いた時は何故かうれしさとペアレントの裏のやさしさを感じ取ったものです。いつも怒られてばかりの親から褒められた時のうれしさみたいな物だが、それ以来、筆山YHの事を何時も気にしていた。
閉館してから既に10年以上経っているので、てっきり解体されていると思い、訪れてみると、建物はそのまま残っていた。公営の建物は現在も地元サークル等の展覧会等で利用されているようだ。嬉しかったのは当時のまま、YHの看板が残っていた事。YHとして再開する事は有り得ない状況なのに看板が残されているとは…。説教ペアレントは今でも御健在なのか定かではないが、昔の思いでに浸るには充分の一時でした。
閉館もあれば開館もある。本日の宿は、まだ新しさの残る高知YH。昨日と違い数人の宿泊者がいて楽しい一晩を過ごす事が出来ました。
高知駅前YH、筆山YHが閉館したものの、高知YHが新設されました♪
○本日の走行250キロ
【2日目の走行コース/河内長野~和歌山~徳島~高知】高知YH泊
日本縦断ツーリングの記事は、基本的に毎週日曜にUPいたします。
なお、このツーリング紀は2005年に行ったものです。
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